西白河郡

震災当時は小6で卒業式を直前に控えて教室の大掃除をしていた。
教室から机を廊下に出して雑巾がけを始める時に地震が来た。
教室には机がほとんどなかったから1つの机に2,3人が入り込む状態で揺れをしのいだ。
廊下にあった水槽が倒れ、教室に積んであった絵の具セットが落ちてきた。
やっと揺れが収まったところでランドセルや体操着を持って校庭に避難した。避難訓練でやったことが本当に生きるとは思わなかった。
校庭に出たら地割れあり、マンホールが飛び出て電柱も倒れていた。下の学年の子たちの多くは泣いていた。本当に怖かったんだなと痛感。
小学校には父が職場から迎えに来てくれた。弟と一緒に車で家に帰った。
家に帰ったら玄関にひび割れがあって、中に入ったら本やら資料やらが全て床に落ちていた。
もちろん自室にあった漫画もすべて落ちていた。
夕方になっても停電が続き、母とコンビニを回って夕飯を調達しようと思ったがどこも何も無い。
やっとの事で見つけて家に帰ったら電気がついた。テレビをつけてみるとニュースでは一面震災特番。本当に鳥肌が止まらなかった。
断水も迫っていたから家中の入れ物に水を入れた。学校も休校になって、数日後に自衛隊の人が給水車を走らせてきた。僕は母と弟と一緒に水を貰いに並んだ。小学校の同級生とも会った。
1週間か2週間後、卒業式はちゃんと行われた。そこで久しぶりに友達に会ったが、入場前に水道の水を飲もうとした友達を止めたこともあった。
原発事故で外に出ちゃダメ、放射線水に入っているかもしれないということだったから。
そして卒業式は短く30分もなく終わった。門送は校舎内で行われた。
もちろん中学の入学式も短くなった。被ばく量を図るためのストラップも配布された。甲状腺検査は定期的に行われて今も続いている。
あの日起こったことは全て記憶に残っている。3月11日になると必ず黙祷をする。福島から上京してもずっと行っている。もちろん福島の方を向いて。
自分史上最恐の経験をしたんだなと回顧。